古典文学における修辞法の用法および表現効果について

和歌たらしめることばたち

「枕詞」は現代語訳するときにも枕詞は訳さないし,おおむね意味はない. 声調を整える効果や呪術的効果など指摘されているが枕詞が和歌史の中で衰退していったことを思うと, 日常的な言葉と一線を画すのが歌ことばであり,たとえば「命が…」を「たまきはる命」とするとぐんと和歌らしくなる. 枕詞は和歌成立期において和歌を和歌たらしめるために使われたのではないか. こうした枕詞を多用したのが柿本人麻呂である. 「沖つ藻の扉きし妹」「まそ鏡清き月夜」「大舟の思ひたのみて」など人麻呂は和歌たらしめる枕詞をその呪術性から切り離し, 人間の手に引き寄せようとした歌人だったのかもしれない. 美智子皇后がご成婚前日に詠んだ歌にも枕詞がある. 「序詞」は枕詞が五音節を基本とし,修飾することばが固定しているのに対し, 二句あるいは七音節以上の語句から成り,修飾する言葉も固定ではない. 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ」(『万葉集』巻八・1500・坂上郎女) の歌なら夏の野の繁みに咲けるまでが序詞である. 人に知られぬ恋は苦しいだけでなく,恋を修飾する映像の浮かぶことばによって苦悩や崇高な美しさを訴えている. 序詞はアクセサリー的存在に見えるが口ずさむうちに序詞の方が記憶に残り強い印象であることに気づかされる. この序詞も時代が下るにしたがってあまり使われなくなっていった. 「掛詞」は和歌にみられる同音異義語の組み合わせである. だじゃれは突拍子もなく二つの意味を掛け合わせるが, 掛詞もおおよそ「心(人間・人事)」と「物(自然・景物)」で成り立っている. 「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」 この掛詞は「降る」と「古」,「長雨」と「眺め」というように自然と人間の組み合わせである. この色あせた嘆きは時間の経過を恨むのではなく,いたづらに経過したことへの恨みであり, 長雨のために花の美しさを十分鑑賞できなかったことと,ぼんやり日々を過ごしてしまった2種類の文脈があり, 雨は涙を,長雨の閉塞感じゃそのまま嘆きを連想させている.

連想ゲームと縁語

「縁語」はことばの連関である.連想ゲームと似たところもある. 「鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き雨あかずふる涙かな」は鈴虫の声が眼前の風景であり, 思わず涙を誘うような光景である.それとは別にもう一つことばの連関があり, それは「鈴」と「振る」である.この二語が縁語に当たる. 縁語には二重の意味を持つことば(掛詞など)を基点として二つの流れが並行しており, この鈴虫の場合は鈴は鳴るとも振るともいい,鈴虫がりんりん鳴く声を鈴を振るを共鳴させているのである. ほかに「さらでだにうらみむと思ふわぎもこが衣の裾に秋風ぞ吹く」 (『新古今集』恋四・1305・藤原有家)ならば縁語は「衣」と「裏見(恨み)」「秋」と「飽き」である. 英語でいるところのダブルミーニングに少し似ているかしれない. 秋風が吹き女の衣の裾が翻り,衣の裏が見えたというのがもう一つの流れであり, 現代誤訳ではそうでなくてさえ,恨み言を言おうと思う.私の恋人の衣の裾に飽きを思わせるような秋風が吹き, 衣の裏を見せていることよとなる.

ダブルミーニングのような役割

これらレトリックを学ぶことによって和歌の面白みは二重にも三重にも増えた. 言葉遊びや漢字にあてたダブルミーニング,連想ゲームなど中世の時代から人々がこんな風に文学に親しんできたことは, 私たちが古典にかえることで初めて日本語の醍醐味を知る機会になるのではないか. 毎年,流行語や新しい言葉が増えては日本語が乱れていく一方でまずはレトリックを学ぶことから和歌を学べることは大きい. 中世の人々も同じように苦悩し,恋に恋していた事実に驚愕の念を覚えた.