私は安岡と小島,両方の作品を読んでみた. まず安岡の作品は,母が狂死してしまうまでの精神病院での9日間を息子と父が看取る形で物語は語られ, その9日間の間にそれまでの家族の(特に母の)思い出が順々に繰り広げられてゆく構成となっている. この母は獣医である夫を毛嫌いし,息子に夫の不在の代償を償わせたところがある. 息子は結核によって家で寝ており,戦地から父が復員してくるまで母と息子は強い絆で結ばれていた. この一家は父の(主人の)不在によって成り立っていて, この時代は日本全国的に貧乏で困窮していたのだろう.この母親が狂っていく要因も貧しさと夫への不満, 夫が定職につかず,落ち着いた住処を得られないことなどの切迫感が関係していると思われる. この父親は悪人ではないが,なぜそれほど家族から疎まれたのかが今ひとつ私には疑問だった. しかし病院で褥瘡の手当をする際に,あまりの痛みに母が目を覚ます場面があり, あそこで一言「おとうさん」と言うのが印象的だった. 親孝行をしたかった息子は親孝行しきれずにいたし,父は照れたように笑ってばかりいたが, この妻を愛していたに違いないと思わせられるのが,この病院での一コマだ. また病院で支給される弁当や果物を食すシーンがとても鮮やかに心に呼び覚ます. もののない時代に描かれた大事なワンシーンかと思うと, 夏の暑さも,汗のにおいも,むせぶように目に浮かんできた.
この親孝行を徹しきれない息子は,母に正気でいて欲しいと願っている. 病院では昏睡状態にあって言葉を発しないが,思い出の中での母は多弁であり,常に何か動き回っていた. 父親も獣医など恥ずかしい仕事とは思えないのに,養鶏をやってみようとか,畑を急に耕そうとするなど, 無茶ばかり試みる.この息子も結核で翻訳の仕事を生業にしているようだが, 戦地に赴くことができないことが何よりの恥だったのかもしれないと思うと, このきつい時代が妙に現代の厳しさと重なり合う. この母親が特別なのではなく,誰しも一線を越えて,狂気に転じることもあると思う. ただそうなるだけの生き方の癖のようなものがあるのではとも感ぜずにはいられなかった. 一方,小島の小説も心が病んでいる. 家を建てる理由や,アメリカ人の情夫,家政婦のみちよなど, この小説は全体的に誰しも歪みがあって,狂死してしまう安岡の小説よりも陰湿で根深いものを感じた. キルケゴールの『死にいたる病』ではないが , 寄り添い信じられるもののない焦燥感や不安感をまざまざと見せつけられ, 私たちは眠っているように毎日生きていて,眠ったまんまなんでもこなせるが, 平凡な日常とはそのようなものなのではないか. しかし亀裂のようないざという揺れの時に初めて目を覚まし, あぁ生きている!と感じるようなぼんやりしたものを誰しもが持っていると思う. そのようなどこまでいっても平行線のような気持ちを小島の小説からはとみに感じた. なぜごまかし続けて生きてゆけるのか,素直になれないのか, 小島の小説も一家が揃うことによって歪みはより大きくなり, 予定調和が崩れてしまう危機を感じた.
この二つの作品を比べてみて,戦後日本は負け,それでも生きてゆかねばならないことは明白で, いまのように余裕がないから,「いかに生きるか」ではなく, 毎日を必死に生きるその日暮らしの印象が強い. 夢や理想はどんな時代にもあっただろうに夫や妻の不在, 心の不在によって家族が円滑に成り立つとは皮肉である. 特に小島の小説では生活水準に豊かさを感じるのに,誰も現状に満足していないのが驚きで, 一体,俊介も時子も娘も何を求めていたのだろう. もう少し質素でも十分な愛があればよかったのではなかろうか. そういう意味では安岡の小説も愛に飢えている. 母の病気は夫の不在とそれに伴う淋しさと愛への飢餓感が原因ではないかとも感じた. 宗教があれば解決するとは言い難いが,もう少し互いを思いやる心をなぜ持てなかったのだろう. 生きるのに必死で他者を思いやる余裕などなかったのだろうか. ふとキリスト教の「隣人を愛せ」という言葉を思い出した. 安岡や小島の小説は自己肯定感が薄く,自我が壊れていってしまうさまが心苦しいほどに描かれている. 時子の情事をきっかけに家庭が壊れたというより, 時子にはやはりそういった素質があったのだと思う. また戦後に限らずいまの時代も核家庭は多い. ただいまと違うのは,皆が必死に生きていたということだ. その必死さがこの二作品から大きく感じた1番の魅力でもある. 生きるための必死さや汗を流すという行為は人として尊い. 私は小島のツンとすました抱擁家族も現代的だが, 安岡の暑さをしのぎながら母を見舞う,盛夏のほうがよりこころに強く刻まれた.